私たちの周りにある実験室や実験器具の原型は、昔の人の探求心から生み出されてきた
私たちが普段活動している実験室や、何気なく使っているビーカー・フラスコなどの実験器具。それらの存在は、先人たちの探求心とたゆまない努力によってもたらされた結果なのです。そこで、ここでは、昔の実験室や実験器具の発展の過程を振り返ってみたいと思います。
先人たちの苦労に感謝するとともに、未来への想いを紡いでいけたらいいですね。
駒込ピペットの「駒込」って?
昔の実験室は、工夫の宝庫
「明治村」には、石川県金沢市にあった第四高等中学校(現 金沢大学)の物理化学実験教場が移築されています。この教場は、自然科学教育の振興を重点施策としていた明治政府によって、1890年(明治23年)に建てられた教場で、実験のための装置や工夫がいたるところに見られます。
・煙突や軒裏の換気口など、随所に実験教室ならではの工夫が
中央の玄関ホールを入ると、左右に物理用・化学用のそれぞれの階段教室が設けられています。教場全体は、木造の平屋建てですが、階段教室のある中央部は一回り大きく作られています。
軒裏には、小さな換気口が多数あけられているのが見えます。実験室に設けられたドラフトチェンバーと共に、室内の換気を意識した理科教場ならではの工夫が見られます。
さらに、屋根の上には2本の煙突が見えます。正面から見て左が化学教室の有毒ガス排出用、右は物理準備室の煙突だったということです。
・ドラフトチェンバーで有害ガスを排出
化学用階段教室の黒板背面には、石敷きの実験台を備えた換気装置付きの小部屋があります。ここでは、生徒に有害ガスを発生する実験を見せていたそうです。
黒板背面にはドラフトチャンバーと呼ばれる換気装置がありました。これは、煙道に暖かい空気を送り込むことで上昇気流を発生させるという原理を利用しています。
第一高等学校の実験室では、着物姿で実験に取り組んでいた
第一高等学校(現在の東京大学教養学部および千葉大医学部・薬学部の前身となった旧制高等学校)の歴史写真館には、大正期の動植物の実験室の様子が残されています。写真を見ると、窓辺で実験している研究員の多くが和服姿であることがわかります。
室内には、実験装置もほとんどなく、広々とした環境で実験していた様子がうかがえます。
実験に欠かせないない顕微鏡は16世紀後半の発明
・オランダの眼鏡職人の親子が顕微鏡の原理を発見
人類は、2世紀ごろからレンズで物を見ると拡大して見えるという知識を得ていたようです。その後、13世紀のヨーロッパでは凸レンズが使われるようになりましたが、高価なもので一般には普及しませんでした。
ちなみに、「レンズ」という名前は形が「レンズ豆」に似ていることから命名されたということです。
16世紀後半、1590年にオランダの眼鏡職人であったヤンセン親子が、2枚のレンズを組み合わせると物が一段と拡大して見えることを発見したといわれています。
これが顕微鏡の原型となり、本格的な顕微鏡へと発展していきました。
・製造技術の発展により、19世紀には1000倍を超える高倍率が実現
1600年代には、顕微鏡は生物学に利用されるようになり、微生物や細胞など数々の発見に寄与しました。
1800年代に入ると顕微鏡は急速に進歩し始めました。ドイツのカールツァイス社が「顕微鏡像生成理論」などを発表し、レンズの設計を大きく改革。さらに、ガラス材料の改良、色消レンズ群の完成、液浸系レンズなどの発明もあり、1000倍を超える高倍率の顕微鏡製造が可能になりました。
なお、1932年には、ドイツ人のルスカによって電子顕微鏡が発明されています。
・日本には、1750年ころにオランダから顕微鏡がもたらされた
オランダの貿易商の手によって、顕微鏡が日本に持ち込まれたのは1750年ころといわれています。
1765年に後藤梨春が著した「紅毛談(オランダばなし)」には、「虫目がね」として顕微鏡が紹介されています。さらに、1781年には、大阪で日本初の木製顕微鏡が作られました。
明治時代になると顕微鏡は多くの大学や研究機関に導入されるようになりました。1877年(明治10年)以降には専門業者によって顕微鏡の輸入が始まり、日本の研究所や教育機関に広く顕微鏡が普及していきました。輸入されていたのは、ほとんどがカールツァイス社やライツ社などのドイツ製でした。
その後、1912年(大正元年)には、加藤嘉吉と神藤新吉がライツ社の顕微鏡をモデルに国産顕微鏡の試作品第1号を完成させました。こうして日本での顕微鏡生産が開始され、今日に至っています。
フラスコ、ビーカー、試験管…なぜ、実験器具にはガラスが多いの?
・ガラスは化学実験に向いている
ガラスの実験器具はかなり薄く作られており、割れてしまう危険性も高いのに、なぜガラス製の実験器具が多いのでしょうか。
それは、ガラスが化学的に安定しており、フッ酸以外のものにはほとんど侵されないからです。ちなみに、金属は酸に弱く、プラスチックはアルコールなどの有機溶剤で変質してしまいます。
また、熱に強いという特性もあります。500℃程度まで耐えられる材料もあり、さらなる高温に耐えられるガラス器具もあります。
さらに、透明であるため容器内での化学反応をよく観察できる等、実験器具として多くのメリットを持つ素材だからです。
ガラスはそれほど高価なものではなく、熱をかけることによって複雑な形状に加工できるという利点もあります。
・昔から、実験名人にはガラス加工の得意な人が多い
昔の化学者は、実験に必要な装置を、ガラス管などを加工するなど工夫を凝らして作っていました。そのため、実験の名人にはガラス加工の名人が多くいました。
例えば、細菌学の父と呼ばれているパスツールはフラスコを加工した特殊な容器で実験を行っていたということです。そこから、伝染病の原因は細菌であることを発見。伝染病を予防するワクチンの開発へと道を開いたのです。
「パスツールピペット」は、パスツールが考案したわけではありませんが、昔から細菌学の実験で使われているため、偉大な細菌学者の名前を冠して呼ばれるようになったようです。
パスツールピペットは先端の細い部分が長く、駒込ピペットと似ていますが、駒込ピペットにあるような液だまりはありません。
・ドイツ人のガラス職人が耐熱性のある「ホウケイ酸ガラス」を開発
ガラスは、およそ5,000年前に人類の手によって生み出された物質だといわれています。以来、人類はガラスをさまざまな用途に活用してきました。
近代になって、ガラスは化学実験にも使われるようになってきましたが、ソーダライム系のガラスが主流であったため、耐熱性が悪く、少し熱を加えただけで割れてしまうものでした。
そこで、19世紀後半、ドイツ人のガラス職人オットー・ショットによって「ホウケイ酸ガラス」が生み出されました。
「ホウケイ酸ガラス」は、酸化ケイ素と酸化ホウ素の形成酸化物を含有しており、高い耐熱性と化学的耐久性を備えています。このため、理化学器具をはじめガス灯や耐熱食器などにも積極的に活用されるようになりました。
・日本の理化学用ガラスの始祖は佐久間象山
蘭学を学んでいた佐久間象山は、1847年(弘化4年)に、ガラス原料に硼砂を混ぜることによって硬質ガラスを作り出しました。この硬質ガラスがどのような実験器具の製造に活用されたのかという記録は残っていませんが、耐熱・耐薬品性を必要とする医学用・理化学用のガラスに使われたのではないかという想像が成り立ちます。
のちに佐久間象山はこの硬質ガラスの製造技術を、江戸切子を作り出した加賀屋久兵衛に伝えたといわれています。
それを受けて、加賀屋久兵衛が営んでいた加賀屋では、化学用ガラスとして、ランビキ(レトルト)、バルモメートル(晴雨昇降バロメーター)、ホクトメートル(比重計)、テルモメートル(寒暖計)などを製造・販売していたようです。
国産の実験器具は、江戸後期から作られていたのですね。
[参照サイト]
明治村 /
[JSIA] 一般社団法人 日本科学機器協会 /
JMMA 日本顕微鏡工業会 /
印西市立印旛医科器械歴史資料館 /
キーエンス /
DURAN GLASS